八正道の正思惟、「正しく考える」ための仏教的なフレームワークに関しては、経営トップの苦しみを生み出している心の問題を例に挙げながら説明したい。
私は「経営トップの心」の問題の一番は「執着」だと考えている。それは貪欲、むさぼるような欲、分不相応な欲望、過ぎたる欲望のことを指す。事業を成功させるにはある程度の欲は必要なのだが、それが度を過ぎたり、異常になると人生も経営も失敗してしまう。
経営トップの倒産事例を研究していると、分不相応な工場建設、事業拡大、本社事務所建設、機械設備などといった設備・資産への投資が多く見られた。成功すればするほど欲が深くなり、貪欲になることが多い。
また、自分の器以上に企業を大きくしようとするケースや、お金や女性で身を滅ぼしてしまうことも多い。この過ぎた欲望の拡大、執着が問題となる心である。こうした場合の執着する心を、私は仏教用語の貪欲(とんよく)の貪(とん)に分類する。
経営トップの心の問題の二番目には「慢心」がある。経営トップは慢心しやすい人が多い。元々実力があるから独立できるので、自惚れやすい面があるのであろう。倒産企業の失敗事例でも慢心しているケースが多く見受けられた。
そして、大企業の経営トップが失敗するケースのほとんどは、この慢心である。経営に対する見識も能力も持っているのであるが、慢心して失敗するのである。
なお、能力が高くない人ほど簡単に慢心する傾向がある。自分の客観視が苦手であるのと、目標が低いので慢心しやすいのだ。
しかし、優秀な人も気をつけなければならない。特に、実績を上げたり、世間に注目されたときなど、大きな成功を達成したときには要注意である。いつの間にか自分は特別な存在だと思ってしまうこともあるので、優秀な人にとっても落とし穴になる。そしてこうした場合の心を仏教用語の慢(まん)に分類する。
三番目には「愚かさ」である。倒産事例で驚かされるのは、お人好しの経営トップがうまい話に簡単に騙されていることだ。騙される本人は薄々気づいていてもブレーキが利かないのである。あるいは、心の弱さからリストラや事業撤退の決断できないこともある。根底には「良い人」だと思われたいとか、嫌われたくないといった弱い心があるのだが、結果的には愚かなことといえるだろう。
また、不勉強で知識、見識が足りないことも「愚かさ」である。ここでは経営トップの内面の考察として愚かさを挙げているが、知識を吸収する取り組みとしての側面もとても大切である。そして、これらの心を仏教用語の愚癡(ぐち)の癡(ち)と分類する。
<続く>
※ この論考の著作権は、古賀光昭にあります。無断転載、使用を禁じます。
私は「経営トップの心」の問題の一番は「執着」だと考えている。それは貪欲、むさぼるような欲、分不相応な欲望、過ぎたる欲望のことを指す。事業を成功させるにはある程度の欲は必要なのだが、それが度を過ぎたり、異常になると人生も経営も失敗してしまう。
経営トップの倒産事例を研究していると、分不相応な工場建設、事業拡大、本社事務所建設、機械設備などといった設備・資産への投資が多く見られた。成功すればするほど欲が深くなり、貪欲になることが多い。
また、自分の器以上に企業を大きくしようとするケースや、お金や女性で身を滅ぼしてしまうことも多い。この過ぎた欲望の拡大、執着が問題となる心である。こうした場合の執着する心を、私は仏教用語の貪欲(とんよく)の貪(とん)に分類する。
経営トップの心の問題の二番目には「慢心」がある。経営トップは慢心しやすい人が多い。元々実力があるから独立できるので、自惚れやすい面があるのであろう。倒産企業の失敗事例でも慢心しているケースが多く見受けられた。
そして、大企業の経営トップが失敗するケースのほとんどは、この慢心である。経営に対する見識も能力も持っているのであるが、慢心して失敗するのである。
なお、能力が高くない人ほど簡単に慢心する傾向がある。自分の客観視が苦手であるのと、目標が低いので慢心しやすいのだ。
しかし、優秀な人も気をつけなければならない。特に、実績を上げたり、世間に注目されたときなど、大きな成功を達成したときには要注意である。いつの間にか自分は特別な存在だと思ってしまうこともあるので、優秀な人にとっても落とし穴になる。そしてこうした場合の心を仏教用語の慢(まん)に分類する。
三番目には「愚かさ」である。倒産事例で驚かされるのは、お人好しの経営トップがうまい話に簡単に騙されていることだ。騙される本人は薄々気づいていてもブレーキが利かないのである。あるいは、心の弱さからリストラや事業撤退の決断できないこともある。根底には「良い人」だと思われたいとか、嫌われたくないといった弱い心があるのだが、結果的には愚かなことといえるだろう。
また、不勉強で知識、見識が足りないことも「愚かさ」である。ここでは経営トップの内面の考察として愚かさを挙げているが、知識を吸収する取り組みとしての側面もとても大切である。そして、これらの心を仏教用語の愚癡(ぐち)の癡(ち)と分類する。
<続く>
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