最近一日一回、両親からいただいた恩を思い出すことをしています。一回の時間を、あまり長くとることはないのですが、寝る前やお風呂に入ったときなど、父や母にしてもらったことを、一つ一つ思い出して、感謝することを行っています。
それにしても、両親にしてもらったことというのは、無限にあるものですね。
父だったら、会社に行ってくれたこと、参観日に来てくれたこと、グローブを買ってくれたこと。
母だったら、毎日弁当を作ってくれたこと、セーターを編んでくれたこと、毎日の食事を作ってくれたことなどなど。
思い出すと、きりがありませんが、それでもできるだけ一つ一つ思い出すようにして、感謝しています。
すると不思議なことに、過去の自分が「光り輝いていたんだな」と思えるようになりました。
今までは、「家が○○だったら良かったのに」と思うこともあったり、さえないなと思うこともあったりしました。
ところが、両親の恩を思い出して感謝をするようになると「自分はなんて恵まれていたのだろう」と思えるようになって、自分自身が素晴らしい愛を与えられて輝いているように思えました。
気づいたのですけど、人間の「幸不幸」って、これがあるから幸福、これがないから不幸というのではなくて、自分自身の見方によって決まるものなんだなということです。
過去に感謝ができるようになったとき、くるっと自分の過去が変わった姿になったような気がしました。
幸せは客観的なものではなく、自分の身の回りに起きていること「そのもの」でもなく、それを”どうとらえるか”、だったんですね。
それにしても、両親にしてもらったことというのは、無限にあるものですね。
父だったら、会社に行ってくれたこと、参観日に来てくれたこと、グローブを買ってくれたこと。
母だったら、毎日弁当を作ってくれたこと、セーターを編んでくれたこと、毎日の食事を作ってくれたことなどなど。
思い出すと、きりがありませんが、それでもできるだけ一つ一つ思い出すようにして、感謝しています。
すると不思議なことに、過去の自分が「光り輝いていたんだな」と思えるようになりました。
今までは、「家が○○だったら良かったのに」と思うこともあったり、さえないなと思うこともあったりしました。
ところが、両親の恩を思い出して感謝をするようになると「自分はなんて恵まれていたのだろう」と思えるようになって、自分自身が素晴らしい愛を与えられて輝いているように思えました。
気づいたのですけど、人間の「幸不幸」って、これがあるから幸福、これがないから不幸というのではなくて、自分自身の見方によって決まるものなんだなということです。
過去に感謝ができるようになったとき、くるっと自分の過去が変わった姿になったような気がしました。
幸せは客観的なものではなく、自分の身の回りに起きていること「そのもの」でもなく、それを”どうとらえるか”、だったんですね。